日本列島の自然宗教と四国遍路
─ 先祖を崇拝する信仰 その1 ─
四国六番安楽寺 住職:畠田秀峰

 日本列島の縄文時代から現在に至る信仰、宗教を「自然宗教」(森の宗教・文化)と呼ぶことができる。
 わたしたち日本列島に住むものは、熊野の那智の滝に代表されるように、それぞれの地域の滝や巨岩、巨木、森や山、海、川、星や太陽等々ダイナミックな大自然の中に神仏を見出し、おがんできた。
 伊勢神宮にお詣りすると、深い森の中に「アマテラス」の神がおられ、紀州の高野山にお詣りすると、杉の巨木の森の中に奥之院があり、「お大師さま」がおられる。四国遍路は、豊かな四国の自然の中に海に山に里に神仏をおがんで行く修行の旅である。
 これらの宗教、信仰は、実は昨日、今日出来たものではなく、縄文時代—おそくても一万数千年の昔から日本列島に住む人々が今に持ちつづけてきたものである。
 それでは、なぜ縄文時代なのか──弥生時代ではどうしていけないのか──それは、弥生時代に入って、そろそろ、大陸の文化が日本列島に入ってくる。静かに日本列島独自の宗教、文化を熟成していた縄文時代の日本列島に弥生時代になると稲作や銅、鉄といったものが入ってくる。そのような意味で、縄文時代には、「日本列島に住む人々」の原型というものがある。今の言葉で言うなら、「日本列島に住む人々のアイデンティティ」、日本人を日本人たらしめる大切なものがそこにある──からであり。その縄文時代からの宗教、文化を、わたしたちは、今に持ち続けているのである。そして、このことは、日本人を日本人たらしめる最も大事なことなのである。日本列島の誇るべきことの一つに「土器の使用が世界で一番早かった」(佐世保市泉福寺洞窟の豆粒文土器(とうりゅうもんどき)・一万二千年前・煮炊きに用いられていた。器の表面に煤や焦げつきが残っている。)ということがある。それは現代の陶芸にもつながる──日本列島に住む人々は、土をこねることで、子供に帰ったように、うれしくなる、心が癒されるのはそのためであると私は考えている。
 縄文時代の人々は土器(煮炊きに便利な深鉢)の使用によって、ドングリや肉、魚介、野菜の煮物や水炊料理を始めた。そしてそれが、コンブでダシを取る。旨みという味覚の発見にもつながった。これまでの調理法が生か焼くかの単調だったのに対して、この土器を使った新しい調理法により食生活は飛躍的に豊かになった。煮物や水炊料理は栄養価も高く、衛生的でもあったために、幼児や老人の死亡率も低下した。この料理は今も土鍋の水炊料理として、わたしたちの家庭の冬の食卓になくてはならないものであり、日本の独自の食文化の一つである。
 又、日本人の食文化について、寺田寅彦(昭和の始めの科学者)は「日本人の常食に現れた特性と思われるのは、食物の季節性という点に関してであろう。俳諧歳時記を繰ってみてもわかるように季節に応ずる食用の野菜魚介貝の年周期的循環がそれだけでも日本人の日常生活を多彩にしている。年中同じように貯蔵した馬鈴薯(ばれいしょ)や玉ねぎをかじり、干物、塩物や、季節にかまわず豚や牛ばかり食っている西洋人やシナ人、あるいはほとんど年中同じような実を食っている熱帯の住民と 『はしり』 を喜び 『しゅん』 を貴ぶ日本人とはこうした点でもかなりちがった日常生活の内容をもっている。このちがいは決してそれだけでは済まない種類のちがいである。」
 日本列島に住む人々は、縄文の昔から、自然を敬い春夏秋冬の四季を楽しみ愛する心を今に持ちつづけて来た。
 その中で最も大切なものの一つが自然宗教である。
 そして、これは日本列島にかぎらず、世界中共通して言えることだが、この自然宗教の中心をなす信仰は先祖を崇拝する信仰である。この先祖を崇拝する信仰は、わたしたちが自然から学んだものである。自然の生命は、春には若葉が芽をふき、夏にはこの若葉が強い日差しと雨に打たれて緑の立派な葉に成長する。やがて、黄色や赤に色付き紅葉の秋をむかえる。そして、ついには落葉の冬がおとずれる。しかし自然の生命はそれで終りではなく冬は長くとも必ず春がおとづれふたたび若葉が芽を出す。そして、自然の生命は循環と再生をくりかえしている。
 わたしたち人間も、死んで終りではない、このDNAは子や孫に受け継がれ、新しい世代に生れ替り、循環と再生を繰りかえしている。子供のない人も、何らかの型で新しい世代をささえている。
 それではこの生命の根源は何かというと、これは人間も動物も植物も同じこと、この生命の根源は、お父さんとお母さんにある。父なるもの母なるものからこの生命は生れるのである。そして今、生命あることをお父さん、お母さんに感謝をすることこれが、先祖を崇拝する信仰の原点である。そして、わたしたちは生れてきてもお父さん、お母さんがいなくては成長することもできないのである。(両親がいなくても、父がわり、母がわりになる人が必要)。
 そして、この良い家庭、良い社会、よい自然環境は一代で築きあげられたものではない。先祖のおかげで今日のこの良い家庭、社会、よい自然環境があるということ。これを、先祖に感謝をすることも先祖を崇拝する信仰の大切な部分である。「家庭や社会は、昔より今が悪くなっている。特に自然環境においてはなおさらである。」ということをいう人がある。はたして、そうであろうか。わたしはそんなに昔と比べて今が悪いとは思えない。
 たとえば、平均寿命をとって見ても、現在日本の男性の平均寿命は79才である。女性に至っては85才、この女性の平均寿命は20年間世界一となっている。ちなみにアメリカ合衆国は男性74才、女性80才である。日本はアメリカ合衆国より、男女共に5才も長命なのである。何も命が長ければ良いというものではないかも知れない。又、生老病死、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦(四苦八苦)の苦しみがいつの時代にあっても無くなることはない。昨今は、アメリカ発の経済不況、派遣切り、リストラで悩む人も多い。
 わたしは、昨日(平成二十年十一月)近所の農家の老人から、「昔は今の季節は砂糖キビをむく季節で、厳しい寒い風の吹くキビ畑で朝早くから、多くの人が畑に出て日がしずむまでキビの皮をむいた。このキビの皮をむく単純作業はおおかたが老人の仕事だった。若い時は見るに見かねて、根元から切り取る力の要るところを手伝ったのを思い出す──
 それが老人のささやかな唯一の現金収入だった。(安楽寺の村は、阿波三盆糖の製産地で、今も砂糖キビ畑が多い)。今は、キビを機械で切断してから、皮を機械で取りのぞき、人手がいらなくなった。多くの老人は、デイサービスで車の送り迎えでふろに入ったり、マッサージを受けたり、レクリエーションを楽しんでいる。良い時代が来たものだ──。」という話を聞いた。そのような人ばかりではないとしても、少なくとも今は決して昔にくらべて悪い時代ではないのである。
 そして、この先祖を崇拝する信仰で、お父さんお母さん御先祖に感謝をすること、その次に大事なことがある。それは、この良い家庭・社会・良い自然環境を子や孫の新しい世代にこれをより良いものにしてのこしてゆくということである。
 さて、弘法大師の信仰も、この自然宗教であり、先祖を崇拝する信仰を中心に置いている。
 それではこの弘法大師の信仰の特徴はどこにあるのか。
 弘法大師信仰の特徴は日本列島の各地にある土着の原始的な自然宗教を特に大切にされたというところにある。そしてこれらを捨てて、仏教を取り入れたのではなく、むしろ、仏教を取り入れることによって弘法大師はこの日本の土着の原始的な自然宗教を文明宗教に育てあげる、造りあげるという偉業を成し遂げられたのである。
 それでは、弘法大師はその偉業をどのような方法で成し遂げられたのか。
 先ず弘法大師は、十九才の時、都の大学を退学して、四国の伊予の石鎚山に籠ります。そして、「自ら糧を絶って断食の行をつづけた。」(聾瞽指帰・弘法大師御著作)と書きのこされている。
 この弘法大師の御修行は、「木食行」と言われるもので、米や麦の人工栽培のものを食べない、五穀を断ち、自然の恵みによって生活をする。二千もある石鎚山では冬になると雪におおわれ、食べるものがなくなる。そこで断食をつづける、この断食の行きつくところは自分の死を見つめることになる。又、この木食行の最も貴い修行は「捨身の行」であり、最終的には、この木食行は、自分を捨て、自然・天地・宇宙の永遠の生命と一つになることを目的としている。四国遍路には、この弘法大師が「捨身」の修行をされた行場が今もたくさん残されている。その代表的なところが阿波の二十一番太龍寺である。ここには南の捨身と北の捨身という行場がある。そしてこの太龍寺の山号は「捨心山」という。これはもともとは「捨身山」であったのである。
 わたしは、二十三才(三十五年程前)前後の時に、この南の捨身で弘法大師が修行された通り修行をしたことがある。今は「南の捨身」はケーブルの山上駅から南東に見える青年弘法大師御修行像(ブロンズ像)の座す断崖絶壁のことである。その当時は、ケーブルは無くお遍路さんは山の下の坂口屋のあたりから歩いていた時代のことで、この「南の捨身」は、人目のほとんど付かない寂しい山中に有った。この断崖絶壁の上に今はこの青年弘法大師御修行の像がお座りになっているが、当時はこのブロンズ像はなく。正しく、弘法大師が青年時代に修行されたその場所にわたしは座って修行をすることができたのである。ここに座ると、南東に思いがけず遠くかなたに海が見える。この海は美くしい湾(橘湾)になっていて、緑の島がたくさん浮んでいる。深い山の中で美しい海にむかって修行をする──その修行は厳しい捨身の行であった──朝日が出るころに座って、虚空蔵菩薩の御真言を繰りはじめる。一日に二万遍──日がしずむまでつづける。居眠りをすると、断崖絶壁を転げ落ちる。ここは堅い岩場で、転げ落ちると必ず死ぬものと思われる。決して居眠りをしてはならないのである。
 このような「捨身の行場」が四国遍路の道にはたくさんある。土佐、室戸岬の四国二十四番最御崎寺の海岸の烏帽子岩、二十六番金剛頂寺の海岸、行道崎の不動岩、これは巨岩の廻りを右まわりに真言を唱えながら、蟹のように手を広ろげて横にはうように行道(岩のまわりをまわる)する。足をすべらすと荒波の海に落ちて生命はない。伊予の国では石鎚山の覗きの行場、伊予の国ではこの石鎚山系を中心にして、四十五番岩屋寺の逼割禅定(せりわりぜんじょう)、横峰寺・香園寺周辺の行場にも捨身の行場と見られるものが残されている。讃岐の国では、四国七十五番善通寺の五岳の内の我拝師山四国七十三番出釈迦寺の奥之院、捨身ヶ嶽。又、四国八十五番八栗寺の五剣山などがある。
 それから弘法大師の好きな修行に滝に打たれる修行がある。お四国には、奥之院と言われる所に弘法大師が御修行されたと伝えられる滝の行場が今もたくさん残されている。わたしは四国十九番立江寺の奥之院、「星の岩屋」の「裹見の滝」で修行をしたことがある。あまり人に知られていないこの滝は立江寺から鶴林寺への道中勝浦川を渡り、山に入る。みかん畑を越えてしばらく坂道を登ると程よい滝の音が聞えてくる。厳しい道ではなく山の中腹にあり、滝も大きな滝でなくと言って小さくもなく程よい修行に適した滝で、小さな御堂や、庵室もある。夜になると勝浦川に添った道路をライトを付けた車が走っているのを遠望することができる。
 NHKの日曜日の大河ドラマ「篤姫」を楽しみにしていたお方も多いと思いますが、わたしもその一人です。この夏の初め(平成二十年七月)薩摩の殿様、島津斉彬公が御病気になり、西郷隆盛が殿様の病気平癒を祈るシーンがありました。この時、水をかぶり、身を清めながら「わたしの生命を捨てても良い、殿様の生命を救ってほしい──。」と祈願します。わたしはこのシーンを見てこの祈願のしかたこそ仏教伝来以前から、日本人が持っていた信仰の型であり、祈願、修行のしかたであると思った。この脚本を書いた人は、それがわかって書いているのであろうし、実際に西郷隆盛はそのようなことをする人物だったのである。だからこそ今も日本人に愛され、人気があるのだと思います。実は、日本列島に住む人々は縄文の昔から「禊ぎ(みそぎ)」とか「水垢離を掻く(みずごりをかく)」といい、「水行」「滝行」によって自分の身を清め神仏に近づくという方法で祈願・修行を行って来た。又、集落が飢饉にあったとき、疫病が流行った時、大水が出た時彼らは「捨身」=身を捨てて家族や集落を救うために行動し、祈ったのです。水行、捨身、これは日本人の伝統的な修行の方法だった。
 それから弘法大師の御修行であげなくてはならないのはもう一つ、「岩屋籠り」があります。
 弘法大師は大工さんの作った人工の御堂や庵ではなく、自然の岩窟に籠って、呪文を唱え、大地と自分が一つになる  という修行をされました。お四国には四国二十番鶴林寺の奥之院に穴禅定、慈眼寺があります。この穴禅定は、人の入りかねる洞穴を頭を下げたり、横にかがんだりして奥に進みます。もうこわくなって帰ろうかと思うぐらいの程よいところに行き止りがあり、そこが少し広くなっています。この行き止りの広場は大地と自分が一つになる修行の為に座る一番適している場所なのかもしれません。この穴禅定は、穴禅定と言われるだけあって途中で地震がくれば「蛙」を踏みつぶしたように自分もぺッシャンコだろう。岩がくずれて入口がふさがれば、もう死を待つだけだ──というようなことを何度か考え、地獄をのぞく体験の場ともなっている。
 このようにして、弘法大師は日本古来の縄文時代から伝わるシャーマン、宗教指導者と言われる人達が伝えた伝統的な修行を実践した。それは、「縄文時代の宗教指導者」──「役小角」──「行基」──「弘法大師」へと継承されたものであった。その間に大陸(中国)から道教、仏教という宗教文化が入ってくる。日本列島に住む人々は、これらの外来の宗教文化を進んで受け入れて来た。しかし、日本古来の宗教文化を捨てて新しい道教や仏教を取り入れて来たのではなく、これらを取り入れることにより日本古来の宗教文化をより豊かに内容を充実させるという方向で外来の宗教文化を取り入れてきたのである。(次号に続く

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