尊い修行の道
─ 四国遍路とお接待 ─
四国六番安楽寺 住職:畠田秀峰

 日本列島に住むわたしたちが原始(縄文)の時代から今に持ち続けている宗教、文化を一言で「自然を崇拝する宗教、文化」ということができる。わたしたちは自然を恐れ、敬い、感謝する。又、四季を楽しみ、花鳥風月を愛する、そういう宗教、文化を絶えることなく今に持ち続けている。
 ここでは人間も動物も植物も海も山も川も空も生命はつながっている。自然も人間も神仏になることができる(三身平等、即身成仏)。
 そして、この自然を崇拝する宗教、文化の中心をなすものは先祖を崇拝する信仰である。わたしたちは原始の昔から、「この生命は自分一代のものではない」と考えてきた。わたしたちは今あることを御先祖に感謝し、この家庭や社会、自然環境を子孫の時代により良いものにして渡していかねばならない そう考えて生活してきた。
 又、この自然崇拝の宗教、文化の最終の目的は「大自然の大きな生命と小さな自分が一つになる」(入我我入)ことにある。そうすることによってわたしたちは「生老病死(しょうろうびょうし)、愛別離苦(あいべつりく)、怨憎会苦(おんぞうえく)、求不得苦(ぐふとっく)、五陰盛苦(ごおんじょうく)」(四苦八苦)といった苦しみを乗り越えてきた。そして、その為に色々な修行を行ってきた。
 その修行の最終的に行き着くところは「捨身の行」、自分を捨てることにつきる。この場合、『自分を捨てる』これは《死ぬ》ということを意味しない。この行はより良く生きるための行であり、実は死の一歩手前まで行くが、最初から引き返すことを前提としている。又、自分を捨てることによって、他の為(利他)に自分を無にして尽くすということでもない。これは、自分を捨てることによって自他平等の立場に立つこと、「自利を捨てて、利他を取る」のではなく、「自利利他平等」=「中道」=「空」を知るということである。これは別の言葉で言うと、「自分も大切に、他人も大切に」「自分なりに後悔のない人生を送る」ということになろうか。
 弘法大師は、これを人間の間だけでなく、人間、自然、神仏にまで広げ、「三平等」(人間=自然=神仏の平等)を説かれた。
 弘法大師は十九歳の時、都の大学を退学され、先ず四国の伊予の国石鎚山に跨(またが)って「断食」の行を続けた。着ているものは苔(こけ)の衣、葛(かずら)を編んだどてら、食べるものは五穀を断ち橡(どんぐり)や荼の菜(とのな(苦い草))であり、これは、「木食行(もくじきぎょう)」と後に言われるようになる。五来重先生は、この弘法大師のされた御修行を「文明を拒否して原始に帰る修行」と表現された。又、弘法大師は人工の家屋でなく、「岩屋箭(いわやごもり)」(岩窟)で呪文を唱え(求聞持法)、滝に打たれたり、川や海に入って水垢離(みずごり)を掻かれた(禊(みそぎ))。これらの多くの修行は「短期間に死を擬似体験(ぎじたいけん)する」ものであるが、その修行の中で最も長い時間を要する、最も尊い修行が、実は重い荷物を負い、修行(托鉢(たくはつ))、野宿をしながら百五十日をかけて『四国の海の邊(ほとり)の廻りの道』を踏む『邊地(へち)修行』(邊路・遍路)であった。

江戸時代後期と大正時代の「四國邊路」の修行

 四国三番金泉寺の北方、阿讃山脈の大坂峠には江戸時代、讃岐と阿波の国境に「大坂口番所」があった。この「大坂口番所」の吹田村(板野町)の組頭庄屋の吉田次郎兵衛は「大坂口番所は四国遍路の通り筋にて遍路に相紛れ乞食体の者、入込み申す様に相聞え申し候。路銀これなき遍路は御番所において念を入れ直に追返し候様に仰付け置かれ度き御事」と遍路の取り締りを藩に願い出ている。
 又、徳島城下、二軒屋町の年寄、五人組は、宝永五年(1708)、「諸国遍路宿を借り申したき旨願い候へども貸し申さず候へば往還の道に笈など指し置き何かと横領申し候、右様の儀、いかが仕り候や」と遍路の扱いを藩に問い質している。
 これに対して藩の仕置家老の山田織部は「廻国(かいこく)の修行(遍路)に宿貸し申さざる事これあり候ては、修行の道、断絶仕儀(つかまつる)に候。往来手形を所持つかまつる者の儀は一夜宿をば借申し候様にこれあり度候。」と答えている。「四国遍路は尊い修行の路、この尊い修行の道を絶やしてはならない」そのような意向が藩側にあったことがわかる。
 江戸時代の後期、天保七年(1836)に四国遍路をした北海道の名付け親といわれる松浦武四郎(当時十九才)はその「四國遍路道中雑誌」(日記)の中で何度も道中で「上へんろ、中へんろ、下へんろ」という話を聞いたと書き残している。その日記によると「上へんろ」とは、一日に三度か七度他人の門前に立って修行(托鉢)、路銀を持たず、善根宿(ぜんこんやど)のない時は野宿、重い荷物を負い、約百五十日の旅、「中へんろ」は修行(托鉢)をしないで路銀を持ち、へんろ宿で泊まりながら重い荷物を負い、約百日の旅であった。それでは「下へんろ」とは、先ず、強力(ごうりき(修験(しゅげん)、山伏に荷物を背負って従った下男))をつれ…と日記には書かれている。荷物持ちに荷物を持たせて自分は身軽になって歩く遍路のことなのである。この「下へんろ」は良い宿で泊まり、各地のおいしいものを食べ、観光も楽しんだものと思われる。
 「上へんろ」、最も尊い「へんろ」は、お大師様がなされた通りの修行の旅をされた人のことであった。番所で路銀のない遍路を追い返したり、遍路に宿を貸すところがなくなれば、最も尊い「へんろ」を締め出すことにもなりかねない。それでは尊い四国遍路の修行の道が絶えてしまう。藩の側にそのような考えがあったばかりではなく、深く広く一般の「へんろ」や民衆の中にそのような考えが行き渡っていたことがわかる。
 平塚雷鳥らと女性解放運動家として活躍した高群逸枝(たかむれいつえ)は、大正七年(1918)、二十四才の時に遍路を志し、熊本から四国への途中で知り合い、「この娘を一人ではやれない」と同行した伊藤宮次(当時七十三才)と二人で四国遍路をしている。順打ちでなく、厳しい逆打ちを選び、野宿をしながらの路銀を持たない遍路であった。その時残した「娘巡礼記」の中で高群逸枝は、「ままよ、別府で費い果たして、無一文で四国をまわろうと考えついた。 生も死も天命だ 無一文で行かねばならぬ。八十八ヶ所霊場、わがために輝きてあれ」。伊藤宮次は、「俺は金はもたん、そいで修業していくのじゃ。アンタもそのつもりで辛抱なされ」といい。又、「お爺さん(伊藤宮次)は既に死までも覚悟して出て行く事にしていなさる。――お爺さんの心算つもりでは野宿山宿あらゆる修業に耐えようというのである。」と書いている。実はこれは「邊路修行」の原点であり、身分、職業、生活を離れ、すべてから解放され、自由になった立場に立つことを意味している。
 江戸時代の「へんろ」は国元の庄屋さんの発行した「往来手形(旅行許可証=現在のパスポート)」と檀那寺の発行した「宗門往来(キリスト教徒でないことを証明したもの)」の二通の手形を持っていた。これらは四国へ上陸する時(港で)、番所を通過する時、宿泊所等で改められた。
 この往来手形の中に「捨て手形」というものがある。これは「万一病死等候時は其の所の御作法をもって、お慈悲の上、おとりおきこうぶり下され度候―その節、本国へ届けに及び申さず候」という追加記入のある手形のことである。わたしは、これは病気で四国で死ぬ覚悟で出てきた人、国元を追われて帰ることのできない等の人のものであると考えていた。しかし、最近、新居浜市の喜代吉榮徳という四国遍路の研究家が四国内で収集した九十九通の往来手形を本で紹介した(四国辺路研究第17号平成十三年七月)。この中で四国遍路関係のものは六十六通であった。そして、この六十六通の中でなんと六十二通までが「捨て手形」の追加記入のあるものであった。追加記入のないのこりの四通の内、一国詣りと思われるものが二通あった。おおかたの四国を一度に全周する「おへんろ」は「捨て手形」であったのである。
 当時、四国へんろは生命をかけた、死を覚悟した旅であった。「国元を出る時、二度と会うことができないかもしれない――親類縁者と水盃をかわして出てきた」という話も一部の人のものではなかったのである。死を覚悟して、生命がけの尊い修行の旅をする「おへんろさん」。四国の遍路道の周辺の人々は、これを肌で感じ、これに同情と共感を寄せ、おしみなくお接待や善根宿をするようになった。
 尊い修行をする「おへんろさん」、それをお大師さんの御分身として尊敬する「へんろ道」の周辺の人々、「お接待、善根宿」はそのような中で今に守り続けられているのである。わたしは当時(江戸時代)の「おへんろさん」の「往来手形」がおおかたが「捨手形」であったことを考えると、「下へんろ」の「下」というのは言葉が悪すぎると思う。「下へんろ」であっても「覚悟の旅」であり、おろそかにして良いものではない。
 わたしは、オリンピックのように「上へんろ」は金メダル、「中へんろ」は銀メダル、「下へんろ」は銅メダルと呼んではどうかと考える。「上中下」どちらも「メダリスト」というわけである。
 現在も、徒歩で重い荷物を負い、修行(托鉢)しながら野宿を基本として行く「おへんろさん」(少数)。重い荷物を負い路銀を持ち宿に泊まりながら歩き通す「おへんろさん」(約五千人)がいる。そして車を利用する「おへんろさん」(二十万人)、これは「下へんろ」ということになろうか。「下へんろ」はちょっと言葉が悪すぎる。でも四国へんろ一回で銅メダリストと言うのもすぎるような気がする。今の時代、四国へんろ三回(車を利用)で銅メダリストで良いのではないだろうか。車を利用しても三回も廻ると少しは修行を積んだことになるのではないだろうか。いつの時代にも、いてもたっても居られなくなって「日常の自分を捨て」て「へんろの旅」に出る人がいる、時代が変わり詣り方も違うが「おへんろさん」にとって今のへんろも昔のへんろもその求めるもの、へんろに出る思いは変わらないのではないだろうか。(終り)
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