遍路・巡礼の道と日本列島
─ 四国遍路の今昔 ─
四国六番安楽寺 住職:畠田秀峰

 役行者、行基菩薩、そして弘法大師の時代から僧侶や行者の苦行の道であった「四国の邊路(へじ)」は室町時代に入って少しずつ一般の庶民も踏むところとなった。そして「四国の邊路へ じ」は最も厳しい修行の道であるとともに、日本の仏教徒にとって後生往生のために一生に一度は踏んでみたい霊場となり、また生老病死、四苦八苦で苦しむ庶民の救いの最後の砦と言われるようになる。
 しかし、当時、徒歩で二ヶ月三ヶ月を要するこの修行の旅に参加できる人はほんの一握りの人であった。そこで「善を修する人おほし、接待をし、宿をかしなど、こころざしあさからず見えける」と「四国徧礼(へんろ)功徳記」(元禄三年・一六九〇・真念著)にあるように「お接待」という形で参加したり、参加できない人のために四国八十八ヶ所のお砂を持ち帰り「小豆島新四国八十八ヶ所」(香川県・貞享三年・一六八六)、「江戸、弘法大師八十八ヶ所」(東京・宝暦三年・一七五三)などなど大小の島四国、新四国が全国に作られるようになった。そして、江戸時代、元禄の頃には僧侶や行者を頂点として一般庶民へと裾野を大きく広げていく、この頃から邊路、徧礼などの言葉が「遍路(へんろ)」と呼ばれるようになった。
 前田卓は「巡礼の社会学」の中で「他国遍路二月より七月までに一日二~三百人も通り候。」(山内家史料・宝暦十四年・一七六四)という史料を紹介して「当時かなりの数の遍路が他国から土佐に入ってきたことだけは明らかである。」としている。
 さて、戦後の「車遍路」の最初のピークは昭和五十九年(一九八四)の弘法大師御入定千百五十年御遠忌であった。四国霊場会の先達制度も充実期をむかえ(公認先達当時約五千人・現在約八千人)、四国のバス会社大手も、こぞって四国巡拝バスに力を注いだ。四国遍路は、この時代に一年間に十万人と言われた。
 それから、少し足踏みはあったものの、平成に入って日本経済のバブルがはじけてからも増加傾向は続いた。
 NHKハイビジョンの「四国八十八ヶ所」(二年間毎週一回一札所二十四分)が全国放映(平成十年)されるなどマスコミに取り上げられるようになり、瀬戸大橋、大鳴門橋、明石大橋、しまなみ海道の完成と、四国は「三橋時代」を迎え(平成十一年)、四国四県を結ぶ高速・自動車道が開通する(平成十二年)これらの追風の影響を受け、ピークであった平成十四年頃には十五万人は下らないと言われた。
 この橋と高速・自動車道の開通は四国遍路に大きな変化をもたらした。先ず四国島外の車、バスが増えたことである。これは島内のバス、タクシーの利用が少なくなったことを意味している。次に日帰りのバスツアーが急に増えたことである。これによって、四国遍路の宿泊施設では平成十二年をピークに現在では宿泊者が半減している。また安価な日帰りバスツアーにおされて、旧来の四国遍路の信仰団体、講社、寺院が巡拝団を募集しても人が集まらない状況が続いている。便利になることによって巡拝の形態は大きく変化しようとしているのである。
 「車遍路は、もはや観光であって信仰ではない。」と言われて久しいが、はたしてどうであろうか。平成八年に実施された早稲田大学道空間研究会のアンケート調査によると、歩き遍路より車遍路の方が「信仰・修行」を選ぶ率が高い。一概に「車遍路は観光である」とは言えないのである。現在では観光目的であれば日本全国、海外にもあまたの観光地があるわけで、現在の遍路には「信仰の旅」を選択して訪れている という一面があることに注意する必要がある。それから、先に述べた江戸時代元禄の頃から見られる「お接待」「新四国」「お砂踏み巡道」といった「歩き遍路」だけのものにとどまらなかった四国遍路の信仰・文化を考えると、現地を踏むことのできる「車遍路」は今の時代の四国遍路の新しい参加の方法として積極的な評価がなされるべきであろう。
 今年の春、安楽寺(四国六番札所)では「シルバー大学あさんOB会」(三月十八日)、「JA大山婦人部みのり会」(四月五日)など、三月、四月で七回の大きな団体による「お接待」があった。四国八十八ヶ所では、最近「お接待」の復活が目立っている。
 また、日本経済のバブルがはじけた平成の初めの頃から「歩き遍路」が増え始めた。リストラや若者で就職できない人がその中にたくさん見られた。また、この時代「自分探し」「癒し」が四国遍路のキーワードともなった。また、平成十八年に入って特に歩き遍路が倍増した(現在約五千人)。五十代後半、六十代はじめの夫婦づれが目立つ。これは団塊の世代の定年退職によるものと言われている。
 最近「四国遍路」は今までになく注目されるようになった。わたしは、これは「砂漠の宗教・文化」に傾き過ぎたものを、もう一度「森の宗教・文化」に揺り戻そうとする風が吹き始めたからではないかと感じている。
 環境の問題だけでなく、原始の昔から、日本人の最終的に行き着く安住の地は「自然と自分が一つになる」というところにある。これを仏教の言葉では「悟り」といってもよい。日本列島に住む人々は死んで神仏となって自然に帰るのであり、日常の暮らしでストレスのたまった人も森に入って癒され、自分を見失った人も自然の中に分け入って本来の自分を取り戻す。
 日本人の日常生活、先祖崇拝の信仰、芸術、華道、茶道、書道などの文化、謡曲、能などなどの芸能、俳句、物語などの文芸もこの「森の宗教・文化」と別のものではない。
 これまで縄文の時代から一万三千年、日本列島に住む、われわれの祖先が守ってきた「森の宗教・文化」を学び、これをものにして「砂漠の宗教・文化」と対立するのではなく、これを包み込み、これを使いこなし、これを習合して、日本の風土に根ざした、今の時代に合った、新しい「森の宗教・文化」を作り上げる。今を生きるわたしたちには、今、それが求められている。(おわり)
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